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ココがキニナル!

横浜に「炭鉱」があった話を詳しく聞きたいです。第二次大戦中まで上大岡や野庭で「亜炭」が多く採掘されたそうで、現在千住院がある山の下も炭鉱だったそうです。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町といったところに亜炭の炭鉱があった。採算の関係で横浜市内で消費したとされている。

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2013年06月10日

ライター:松崎 辰彦

炭鉱地・野庭を歩く

横浜に炭鉱があったって本当?(前編)では横浜市にかつて亜炭の炭鉱があったこと、採掘の最盛期は1918(大正7)年、1919(大正8)年および太平洋戦争中だったことなどを見てきた。
本日は、実際に採掘現場を歩いてみよう。

採掘現場の一つ、野庭は横浜市内の亜炭の生産地だった。

横浜大空襲でも標的を外され、神社などがかつてのまま残っており、都市ではない田園の横浜の風情を残している。
ご案内いただいたのはNPO法人港南歴史協議会事務局の茅野眞一さん。港南区を中心にした横浜の歴史を調査されている。
 


茅野眞一さん。迎陽トンネルの近くで


「この上野庭(かみのば)はまだ自然が残されています。昔はこのあたりの畑を耕せば亜炭がゴロゴロでてきたとも言いますよ」

このあたりの炭鉱は、おそらく地表から真下に掘る“露天掘り”だったのではないかと茅野さんは推定する。
 


田園風景が広がる野庭


「地表から地下に向けて、まっすぐ掘り進めていったのではないでしょうか。亜炭は地表近くにありますから、そうしたやり方をとったのではと思われます」

そして亜炭の行き先に関しても、私見を述べてもらった。

「南区に練炭店があるんですが、そこに流れたのではないかと思います。戦後、燃料のない時代には、亜炭から練炭や豆炭(まめたん。石炭や木炭などを豆状にしたもの)を作ったのではないかと推定しています」
 


野庭の亜炭が産出したあたり(画像提供:港南歴史協議会)


かつて本郷台には海軍工廠(こうしょう)があり、そこでは代用燃料を作っていたと茅野さんは言う。
亜炭もそうした代用燃料として使われたということなのだろうか。

この付近に住む浄念寺の橋下賢明住職は、
「(前略)昔は野庭で掘られていた亜炭を馬の蹄鉄を作っていた鍛冶ヶ谷へ運ぶ為に、小菅ヶ谷経由で運んでいましたが、現鎌倉街道が明治10年に七曲り切通しが出来、開通した事により、より近道で運びたい、又野庭村より日野村を経て横浜との交流をしたいとの要望が強くなりました」と『街づくりの歴史物語 こうなんの歴史アルバム2』(港南歴史協議会)の中で記述している。

馬の蹄鉄作りに、亜炭が使用されたことが明言されている。
 


橋下賢明住職(画像提供:港南歴史協議会)



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